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気仙沼市地域雇用創造協議会
厚生労働省・宮城労働局委託「地域雇用活性化推進事業」
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厚生労働省・宮城労働局委託「地域雇用活性化推進事業」

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NEWS

  • 2020.11.09
    気仙沼での「仕事」・「暮らし」・「ひと」オンライン座談会を12月実施する予定です。参加企業は現在調整中ですが、参加したいという方は下記のメールアドレスまでご連絡をお願いいたします。

    k.koyousouzou@gmail.com

    ※上記日程の都合は悪いが、「別日程での調整を希望したい」という方のご連絡もお待ちしています。

気仙沼での
「仕事」・「暮らし」・「ひと」
オンライン座談会

ONLINE

日程:12月実施予定※詳細が決まり次第、更新いたします

参加企業:調整中

【お申込方法】
下記のメールアドレスにご連絡をお願いいたします。
k.koyousouzou@gmail.com

※上記日程の都合は悪いが、「別日程での調整を希望したい」という方のご連絡もお待ちしています。

「取材ライターの独り言」

中途採用の「移住」者は、気仙沼のバランスのリソース

今回、私が話を伺った中途採用の「移住」者は、20代、30代、40代とそれぞれ異なる世代ながら、移住の動機はみな震災だった。ある人はボランティアをきっかけに。ある人は被災したふるさとへの恩返し。そしてある人は発生直後から地元で復興に携わってきた。そこに共通する意識は、自分のためじゃなく、まちのため。好きで続けていた前職をそのキャリアごと切り捨て、収入面でも都会に太刀打ちできない気仙沼にいさぎよく暮らしの基盤を移し、地域の幸せのための一翼となった。その決断は当時、かなり不安な冒険的リスクだったろうと思う。
ただ、いまの彼らにそんな面影は微塵もない。むしろ、まちの復興と発展につながるここでの仕事にひとりの組織人、あるいは責任を抱えた役職や尊敬される父、注目を集めるリーディングカンパニーの若き猛者として、生きがいと誇りを持っていた。
彼らが社会人としてそれぞれの地で培ってきた経験は、新しいチャレンジがどんどん生まれるこのまちで、大切なバランス感覚となって生かされている。むしろその経験こそが彼らをこの地に導いた、そんな気さえするくらいだ。

[ライタープロフィール]

仙台市生まれ。父親の仕事の関係で小中高と宮城、福島、茨城で暮らし、静岡での大学生活を経て仙台へUターン就職。広告代理店に勤めた後、10年前からフリーランスとして独立。読み手に寄り添えるコピーワークを目指し、さまざまなジャンルで活動中。

CHARM

気仙沼の魅力

時代を生き抜いてきた不屈の精神。

県内でもアクセスの不便さから《陸の孤島》と呼ばれている、気仙沼。
復興道路として整備が進む三陸自動車道の気仙沼港-唐桑南(7km)が開通すると(2020年度内予定)、仙台から唐桑までの道が一本でつながり、アクセスも2時間圏内。
気持ちの距離も少し身近になる。

もともと天然の入江だった気仙沼湾は水深が浅いため大きな商船が入港できず、大企業の資本も入らない、時代の開発から取り残された場所だった。
だから気仙沼の人々は、世界屈指の漁場がもたらす海の恵みを資源に会社を興し、産業を育て自分たちのチカラだけで生き抜いてきた。
まちへの愛着が深いのはそんな理由がある。

海と山が織り成す気仙沼の美観はその証。
このまちには他の港町でよく目にする、もくもくと煙突から煙を吐き出す工場の景色がない。
それは、ここで生きてきた人々の歴史でもあり誇りでもある。

あたらしい感性を受け入れる共感力。

2011年の東日本大震災では、気仙沼だけで1,000人以上の人が亡くなった。
まちも甚大な被害を受け、その現実を前に、地元企業の経営者たちは廃業か、継続か苦渋の決断を迫られた。
涙をのんで廃業せざるを得なかった企業も少なくなかった。
そんな中、かろうじて立ち上がることができた会社の経営者たちは、再興できなかった人々の想いを背負い、まちのために、と助け合いながら復興の道を歩んできた。
それまで排他的だった人々も、他者を受け入れることの大切さを学びとってきた。
あたらしい感性を楽しむ気仙沼の素地はそうやって生まれた。

だから気仙沼で何かをしようと思ったら、まず周囲が放っておかない。
あれやこれやと親身になって、相談にのってくれる。
どうしたら実現できるかを、一緒に考えてくれる。
ときには助け舟を出してくれたり、一緒に汗を流してくれたりする。
人のつながりなくしてこのまちはなく、むしろそれこそが、この地を選んだ移住者の先輩たちが口を揃えて答える魅力。
いつ訪れても、それが誰でも家族や親戚のようにあたたかい。
だからこの地に移住してくる人たちは、みんな等身大の自分で頑張れるし、『このまちのため、人のため』という新たなモチベーションに気づかされている。

自分のキャリアが、まちを創る。

中途採用でこのまちに移住してくる人は言ってみれば「半分よそ者+半分地元」のハーフ。
客観的なものの見方や、これまで積み上げたキャリアなど、まちづくりの即戦力として期待される存在だ。
まだまだ復興半ばの気仙沼には、そんな人の実力を生かせるステージがたくさんある。

気仙沼では「実現したいこと=実現できること」。
自分の適正や能力、これまでの経験がダイレクトにまちや人のためになる手応えも大きい。
例えば、気仙沼の人とこの地の食べ物に惚れ込んで、陸に上がった漁師を癒す銭湯が隣接した定食屋を開いた人。
例えば、この土地を知らない旅行者のためにわが家のような居心地と、わが家にはない出会いを提供するコミュニティのようなゲストハウスをつくった人。

この地に移住し、頼りになる仲間や上司との出会いに支えられ、目標を達成した先輩たちがたくさんいる。
そんな移住者の想いによって、気仙沼になかったものがいま、どんどん生まれている。
「東日本大震災以前に戻す」ことではなく、『それ以上のまちに進化させる』こと。
この進化の過程に飛び込んでくる人たちを、気仙沼の人たちは放っておかない。

気仙沼で働く方の
メッセージ

MESSAGE

Profile

  • 加藤広大さん
  • ◎出身/神奈川県(Iターン)・23歳
  • ◎仕事/仁屋代表
  • ◎移住2年目
    10代の頃から、国内のボランティア活動や学生の起業支援イベントの運営に従事。東京での学生時代、自身が主催する企業セミナーでサイバーエージェントのABEMAと出会い、インターンシップ後、大学を中退し20歳で同社に就職。2年間に渡り番組プロデューサーを務める。2018年に気仙沼に移住。

あ、やられた!と思わせてくれる、同世代のライバルが欲しい。

大学一年生の時の授業に「ボランティア論」があった。先生はなんだか変わった面白いおっちゃん(笑)で、その先生がある日、唐桑で「まるオフィス」が主催する夏のワークキャンプのチラシを持ってきた。それまで僕は、大学に入ったらヒッチハイクで日本をまわるつもりで、その準備もしていた。でもそのとき、なぜだか全国を見る前に被災地を見ないといけないかなと、ふとそんな義務感を抱いた。軽い気持ちだった。
唐桑でワークキャンプに参加した後、僕は東京に戻って、ある理由からキャリアイベントを主催していた。大学3年生になったら急に将来のことを考えなくてはならない世の中のシステムに、実は前から違和感があった。なぜ働くことを強制されるのか。イベントを主催したのは、そんな社会のルールに急かされて、しょうがなく就活するということじゃなく、もっとポジティブな理由で働きたかったからだ。そのため自分自身で色々な会社の採用担当者にメールを送り、直接掛け合って企業説明会を開催した。そうやって知り合った動画配信を手掛ける大手企業のひとつに、僕自身が大学を中退して就職した。20歳だった。
会社では、裁量権のある番組プロデューサーとして働き、仕事は楽しかった。でも入社して2年後、組織の再編により以前のような立場で仕事ができなくなることが分かった。そのタイミングで再び訪れた唐桑で、僕は衝撃を受けた。
以前も感じたマイナスをゼロに戻し、さらに上を目指す大人たちのギラギラした熱意が、震災後10年の節目に向かってまた別のカタチで加速していた。このタイミングを逃したら自分はただの傍観者になってしまう。そこに強く惹かれ、会社を辞めてこの地にきた。
東京で働いた2年間は、学生の頃とはまた違う視野で気仙沼の魅力に気付かせてくれた。僕にとって必要な2年間だったように思う。
いま僕は、気仙沼で2つの仕事と向き合っている。ひとつは、地元産業の活発化や認知促進を目的に、これまで外部に発注していたふるさと納税の商品開発を地元で行う「仁屋」という組織。これは市役所と一緒にやる予定で、モノとしての商品開発だけでなく、体験商品なども含め僕の事業の経済的基盤にしたいと考えている。そしてもうひとつは海のまち気仙沼ならではの、漁網をリサイクルしたアパレルブランドの設立だ。こっちは僕の挑戦でもある。双方のテーマは、その背景にあるストーリー。
実は《太平洋ゴミベルト》と言われる海域に浮遊するゴミの50%が現在、漁網だと言われている。「海とともに生きる」というスローガンを掲げている気仙沼で、この事業を行うことはとても意義深くて、事業としてもいいストーリーになる。また、それが立ち上がることで、気仙沼全体の意識の底上げもできると思っている。
アパレルブランドの商品開発では僕自身が好きな「靴」をモチーフにして、文字通り物語を編み直すつもりだ。その作業を考えるだけで、いまからとてもワクワクしている。まだまだ構想の段階ではあるけれど、この事業に共感してくれる移住者の仲間もたくさんいる。
僕自身の実感としても、気仙沼には挑戦者にとって刺激的なまちだ。やりたいことに取り組んでいる仲間も大勢いる。でもひとつ残念なのが、同世代のライバルが気仙沼にはまだいない。これは目下の悩みでもある。やっぱり同世代や同い年は特別。あ、やられた!俺も頑張ろう、みたいな、この気仙沼で同じ視座で夢を語れる、そんなライバルに出会いたい。

Profile

  • 畠山隼人さん
  • ◎出身/気仙沼(Iターン)、40歳
  • ◎仕事/小野寺鐵工所勤務
  • ◎移住10年目
    震災をきっかけに30歳で気仙沼に移住。小野寺鐵工所の設計開発部に所属し、漁労機械などの設計業務を担当。気仙沼みなとまつりでは、小学校の頃からやってきた和太鼓を披露する気仙沼っ子。3児の父。

人と話したり、関わったり。気仙沼の良さは景色だけじゃない。

私の実家は気仙沼湾の最奥部に位置する鹿折(ししおり)地区。鹿折は気仙沼の中でも、津波の被害規模が最も大きかった。もちろん私の実家も被災した。幸い両親は無事だったが、子供の頃、よく遊んだ景色も一面ガレキに埋もれて見る影もなくなった。私を育んでくれたふるさとの惨状を目のあたりにし、気仙沼のために何かできないか、それが私の移住のきっかけとなった。
大学は同じ高校の先輩が進学した影響もあって、埼玉に出て機械工学を学んだ。そしてそのまま、迷いもなく県内で携帯電話の設計をする会社に就職した。
移住を決意して、気仙沼での就職先を探し小野寺鐵工所の社長と初めて面談したとき、地元の造船業者によって新設される「みらい造船」の構想図を見せられた。その絵を見て、この会社なら自分も何か気仙沼に残せるんじゃないか、気仙沼のために働きたいという想いが、一層強くなった。
前職でCADによる設計業務をしていたスキルを活かし、いまは主に船に載せる漁労機械や省人化にまつわる機械などの設計業務に携わっている。以前は携帯電話ということもあって、決められた仕様の中で設計する窮屈さがあった。いまはそれがないぶん逆に大変で、漁師が命を預ける船に搭載する機械という責任もあり、数段やりがいがある。
実は私の原体験は幼少期。当時、父親が乗っていたサンマ船で、船のエンジンルームを見せてもらったことに始まる。そのとき目にしたエンジンの巨大さや音、振動など、圧倒的なスケールに子供ながらに衝撃を受けた。機械について興味を持ち始めたのもそこからだ。
移住して10年。いまは気仙沼で結婚し、3人の子供の父親にもなった。気仙沼の大変なところについてよく聞かれるが、私自身は地元ということもあり大変さを感じたことはない。むしろ、埼玉のほうが暮らしにくかったくらい。気仙沼は海や山も近く、休日は子供たちと自然に触れ合いながらのんびり過ごせる。交通の便は確かに少し悪いけれど、自分にとっては大した問題ではない。
小野寺鐵工所では「ファミリーデー」というものがあって毎年、子供を会社に呼んで、自分のお父さんたちがどういう仕事をしているのか、実際の仕事場や工場を見学してもらう機会がある。私の子供たちも気仙沼生まれ。幼い頃、私自身が船のエンジンを見て衝撃を受けたように、私のいまの仕事を通じて子供たちに人生における何かのきっかけを与えることができたら嬉しい。
自身の経験からも一度、外の世界を見たことは大きな学びになっている。子供たちには気仙沼にずっと暮らすより一度、他の地域を見て経験を積んで、そのいいところを還元して気仙沼をもっともっと、いいまちにしてくれる人になってもらいたい。そう願っている。そのためにも地元の会社とのつながりを含め、いまこの地域がどんなことをしていて、どういう会社があるのかをしっかり理解して欲しい。
気仙沼は自然も豊かで穏やかな地域。人と人とのつながりも強く、他の場所から来た人も構わず心配しちゃう土地柄(笑)。震災後は特に色々な地域から自分のやりたい想いを持った人々が集まって、新しいコミュニティも誕生している。もし家族と一緒の移住を考えているなら、この環境はおすすめ。私自身も関東で暮らしていた頃より、だいぶおおらかな性格になった(笑)。

Profile

  • 鈴木惇也さん
  • ◎出身/宮城県(気仙沼)(Uターン)・37歳
  • ◎仕事/アーバン株式会社
  • ◎移住5年目
    個人事業主として気仙沼で活動後、震災を機に仙台でボランティアに従事。現在は気仙沼で冠婚葬祭を手掛けるアーバンに勤務し、自社サイト管理や新入社員の人事を担当。若い頃は予定を決めない一人旅を楽しんだという行動派。

中途採用のいいところは経験値。仕事でも暮らしでも生かして欲しい。

移住のきっかが震災とはいえ、私の場合はちょっと逆。まず仙台が復興しないと気仙沼まで行き渡らないと思い、震災後は仙台でボランティアに参加した。実は以前は気仙沼で個人事業主として、水泳のインストラクターを務めていた。赤ちゃんから高齢者まで教えていた。その仕事は好きだった。
仙台の復興がある程度落ち着いて、次は地元のために何かをしたいと思い、それで気仙沼へ戻ってきた。こちらでは冠婚葬祭を手掛けるアーバンに就職した。その出会いは何といっても社長の人柄に惚れたから。
私はいま、会社でホームページの管理や新入社員の人事の仕事をしている。うちの会社の面接は、本当に形式ばったところがない。実際に面接し終えた学生に感想を聞くと、みんな「なんだか楽しかった。面接じゃないみたいだった」と答えてくれる。経営者だからと、戦略だけで人づきあいをしない。気仙沼の人はみんなそういう人。
うちは家族全員気仙沼生まれ。私も生粋の気仙沼っ子。だからそんな人々とのなかで育ってきた。震災後、気仙沼に移住してくる人も多くなったが、そのつながりは希薄になるというよりむしろ、より強くなった気がする。
気仙沼の良いところはある意味、外に開かれた港町だからこそあたらしいこと柔軟で、さまざまな可能性がゴロゴロしている。きっかけが山ほどあって、自分のやりたいことのチャンスが掴みやすい。逆に悪いところはどこに行っても、知り合いがいる。独りになるのがちょっと難しい。これは、私自身も感じる気仙沼あるある(笑)。
この地に移住を決定する決め手が何かと言われれば、それはやっぱり人。よく聞くのは経営者や気仙沼に住んでいる人の魅力が理由というのが本当に多い。人が人を呼ぶという感じ。逆に決定しない理由は、いまのところは交通の便かな。立地的に暮らしが気仙沼で完結してしまうため、それを気にする人には正直住みづらい場所かもしれない。あと給与面も都会と比較すると確かに低い。でも世の中の流れにもれず、いまは気仙沼でも副業しようという動きになってきている。ここでは近所とのつきあいも深く、都市部で暮らすよりは生活費はかからない。声を上げれば会社はもちろん、必ず誰かがサポートしてくれる。その意味では安心感がある。
ネットの普及やまちの成熟により、文化が均質化してきている時代、気仙沼のように個性が強いのはとてもいいことだと思う。でもそれだからこそ、独りよがりにならないバランス感覚も大切で、私自身はあえて気仙沼に染まらないよう意識している。染まってしまうと経験してきたことの意見も言いづらくなる。採用の仕事では、学生にも学校で学んできたことを生かすため、会社に染まらないようにと伝えている。まあ、でもやっぱり学生は染まってしまうけど(笑)。でもそこから自分の意見をきちんと言えるようになれればいい。それを忘れないでいてもらうためにも、この話は必ず学生に伝えている。
自分自身の経験も含め、中途採用だから分かることも多い。それをぜひ、気仙沼に来て生かしてもらえれば、まちがもっと魅力的になると思う。

気仙沼での
「仕事」・「暮らし」・「ひと」
オンライン座談会

ONLINE

日程:12月実施予定※詳細が決まり次第、更新いたします

参加企業:調整中

【お申込方法】
下記のメールアドレスにご連絡をお願いいたします。
k.koyousouzou@gmail.com

※上記日程の都合は悪いが、「別日程での調整を希望したい」という方のご連絡もお待ちしています。