気仙沼市地域雇用創造協議会
厚生労働省・宮城労働局委託「地域雇用活性化推進事業」
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  • 中途の方

気仙沼市地域雇用創造協議会
厚生労働省・宮城労働局委託「地域雇用活性化推進事業」

わたしが気仙沼にきた理由。気仙沼を選んだ理由。

「はじめから気仙沼」、
と決めていた人の方が少ない。
地域全体が
「ちょっとオモシロい会社のようなまち」
その実態を移住者の声、視点から大公開

Events
&
News

  • 2021.01.18
    【宮城県外の学生向け交通費補助のご案内】

    宮城県では県外から県内へのIJターンを考えている学生の方向けに宮城県内で行われる合同企業説明会や企業説明会及び面接時にかかる交通費の補助を行っております。詳しくは添付のチラシをご覧ください。ご相談も承っておりますので、詳しく知りたい方は当協議会までご連絡頂くかチラシのお問合せ先までご連絡ください。
  • 2020.12.28
    【 東京圏から宮城県へUIJターンされる方へ移住支援金のご案内】

    宮城県では、通算5年以上かつ直近1年以上東京23区内に在住又は通勤・通学(埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県から)している方で
    宮城県へ5年以上継続して移住予定の方向けに移住支援金の支給を行っています。詳しくは添付ファイルをご覧ください。
    ご相談も承っておりますので、詳しく知りたい方は当協議会までご連絡頂くか
    添付ファイルのお問合せ先までご連絡ください。
  • 2020.12.04
    外国人向けオンライン企業説明会を実施いたしました。

    【日程・参加企業・参加者数】
    11月27日(金)株式会社気仙沼商会   16名
    12月1日(火)株式会社パートナーズ   20名
    12月3日(木)Mioテクノロジー株式会社 20名

    【時間】10時30分~11時30分

    【今後の予定について】
    今後も開催を予定しております。開催が決定した際には
    当HPでご案内致します。
    外国人向けオンライン企業説明会にご興味のある方は下記
    連絡先までお問合せください。

    メール:k.koyousouzou@gmail.com
  • 2020.11.19
    合同企業オンライン座談会を11月18日(水)実施いたしました。

    日程:11月18日(水)
    時間:15時00分~17時00分
    参加企業:アーバン株式会社、アサヒ冷熱株式会社、株式会社気仙沼商会、株式会社ミヤカン 
    参加者数:9名

    【今後の予定について】
    今後も開催を予定しております。開催が決定した際には
    当HPでご案内致します。
    気仙沼企業のオンライン座談会にご興味のある方は下記
    連絡先までお問合せください。

    メール:k.koyousouzou@gmail.com
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合同オンライン座談会

随時、参加の申し込みを受け付けております。
少しでもご興味のある方は下記メールアドレスにお問い合わせください。

気仙沼での働き口
採用募集企業一例
※50音順
※今後、募集企業情報は随時追加アップ予定です。
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「取材ライターの独り言」

いまの時代、「移住」って実は贅沢なのかも。

同じ宮城県内に住む私でさえ、気仙沼は県外へ出向くような感覚の《陸の孤島》。この仕事に出会うまで、気仙沼への「移住」なんて考えたこともなかった。だからこそ、都会への憧れもゼロではないだろう新卒の身でいきなりこの地に「移住」してきた若者たちに、違和感と同じくらい興味をそそられた。
現地に出向き実際に話をしてみて「移住」という言葉に彼らが抱くイメージが、マイナスでもプラスでもなくフラットなものだったことも意外だった。そして、むしろ私のほうが、逆にその言葉に縛られているように思えた。
自身の意見や悩みを率直に、それでいてどこか楽しそうに語る彼らから受ける印象は、ごく普通のどこにでもいる若者像だ。気仙沼の大変なところは?という、不自由さを前提とした意地悪な質問も、想定した答えは返って来ず、むしろ軽快に笑い飛ばされた。おそらくそれは、気仙沼での暮らしが彼らに与えた嘘のない充足感だろう。脳みその筋トレばかりでフットワークの悪い私には分からない、この地の贅沢なリアリティなんだと思う。

ライタープロフィール

仙台市生まれ。父親の仕事の関係で小中高と宮城、福島、茨城で暮らし、静岡での大学生活を経て仙台へUターン就職。広告代理店に勤めた後、10年前からフリーランスとして独立。読み手に寄り添えるコピーワークを目指し、さまざまなジャンルで活動中。

移住者インタビュー

MOVIE

とにかく思い切ってやって欲しい。「郷に従え」とかじゃなく。 僕の移住のきっかけは、2011年3月11日の東日本大震災。早稲田大学を卒業し、友人と出かけた静岡への卒業旅行中に地震に遭って東北の大惨事を知った。学生時代に活動していた海外ボランティアの仲間の動きや後押しもあって、もういてもたってもいられず東北へ向かった。もちろん、それまで東北との縁などまるでない。
その頃、僕は東京の会社にすでに就職が決まっていた。震災がなければ何の迷いもなく、4月からその会社で新社会人になっていただろう。内定をもらっていた東京の会社に断りの連絡を入れるまで、モヤモヤとした葛藤がなかったと言えば嘘になる。でも2週間後の3月30日、退路を断つ気持ちで連絡し、その勢いのまま知り合いのツテで気仙沼の唐桑半島へと向かったのが4月5日。現場はまだカオス状態だったのを覚えている。唐桑との出会いはそこから始まった。
現地での住まいは僕を受け入れてくれた家族の家の倉庫を借り、他の学生たちとシェア。最初はガレキ撤去のボランティアから始まって、やがて全国からやってくる大学生ボランティアの受け入れやマッチングを任されるようになった。
移住を決意したのは一年後。ガレキがだいたい片付いてハイじゃあ、あとはよろしくっていうのも、なんだか薄情だなという思いと、それ以上に僕の人生の一部になってきたこのまちの未来を見たいと思った。そして僕自身が、そのチカラになりたいとも思った。
気付けばこのまちで暮らして、もう10年になる。
気仙沼には「福も禍(わざわい)も海からやってくる」という言葉がある。禍(わざわい)とは、避けることのできない天災。そして福とは海からの豊かな恵み。その中には、世界に開かれたゲートでもある海から来たものを受け入れ、自分たちのチカラでまちをつくりあげてきたという、港町ならではの自負も含まれている。
いま僕は公教育と連携し、地元の中高生を対象に、気仙沼のそんな気概を受け継ぐ若い力をサポートする育成プログラムを行っている。プライベートではこの地で結婚し、2人の子供にも恵まれた。気仙沼は都会と比べると年収が低い。もちろん、お金には代えられない仕事の楽しさや自然の豊かさ、暮らしの価値については僕自身がよく理解している。でも、これはどうしようもない現実。確かに食べ物は新鮮で安いし、ご近所からいただく貰い物だってしょっちゅう。でも僕のように移住して家族が増えたり、子供連れでこの地にやって来たりするなら、家族が将来に渡って安心して暮らすことのできる手立てを考えていくこともここでは必要だ。
31歳を迎え、移住者の中でも最古参の10年というキャリアのなか、僕がこのまちで期待される役割や、周囲に与えるその影響力も少しずつ変化している。今でもときどき連絡を取り合う東京の同期たちは、みんな会社で中堅になって、電通でいま何をやっているとか、華々しく活躍している話も聞いている。そんな友人たちが社会に出しているインパクトと比べ、自分はこのままでいいんだろうかと悩んだり、正直焦ったりもする。負けたくないという気持ちもある。これは東京と気仙沼の違いというより、そいつと僕その違いにすぎないけれど(笑)。
自分で選んだ気仙沼に来て、ここの人に助けてもらって、まちに育ててもらって。このエリアでやってきたことを、他の地域でもできる自立的な仕組みとして展開していくこと。それがある意味、10年ここで暮らしてきた僕が目指す自分なりのインパクト。ひとつの目標だ。
気仙沼は何かに挑戦したい人に寛容なまち。何も知らない移住者だった僕が、気仙沼でいまなお試行錯誤しながら、色々なことに挑戦できていることがその証。しきたりだとか、常識だとか、そんなことに囚われず、ここに来たら、まずはとにかく思いっきりチャレンジしてもらいたい。

Profile

加藤 拓馬さん
出身/兵庫県(Iターン)・31歳
仕事/一般社団法人 まるオフィス:代表理事
移住10年目

大学卒業と同時にボランティア活動で来た唐桑半島に移住。2015年に一般社団法人 まるオフィスを設立。「地元からわくわくを」のスローガンのもと、地域での人づくりをテーマに、さまざまな教育プログラムを手掛ける。家庭では二児の父。

MOVIE

転職では本当に色々な人のお世話になった。それもあってまだ気仙沼にいる。 僕がなぜ気仙沼に来たのかと言えば学生時代、大学時代に震災のボランティアを経験したことから始まる。
2013年から気仙沼はもちろん、岩手県の大槌や釜石、福島の南相馬、宮城は石巻などで復興ボランティアをしながら、それぞれ1泊2日くらいの短い滞在で被災地に足を運んだ。そこで目にしたのは、想像以上に程遠い復興の現実だった。まだまだ復興どころじゃない現地での様子に触れ、ちょっとがっかりもした。一度は地元で就職しようと考えたが、自分が一生懸命学んできたことへの心残りもあって、悩んだ末にやっぱり復興に関わろうと、被災地での仕事を探してみることにした。
そんななか、縁あって気仙沼にある水産加工会社に就職が決まり5年前に移住をした。当時、気仙沼にそこまで深い思い入れはなかった。でもここには他の地域から来た僕のような移住者もいて、その事実にはちょっと安心というか、魅力を感じた。
会社では工場でのライン作業の他、配達や営業など、色々な仕事をさせてもらった。でもやがて、何か自分なりの手応えのようなものが欲しくなった。そして2年程で会社を退職した。
いまお世話になっている三陸新報との出会いは会社を辞めて、ちょっとだけ唐桑の公民館で臨時職員で働いていた時期に、ハローワークで求人を見つけたのが始まり。もともとメディア関係の仕事に憧れもあった。実は最初、移住する前に地元で就職活動をしていたとき、NHKなどメディア関係をターゲットに志望していた。でも結果としてダメで、もういいやと、すっかりあきらめていた。そんなこともあって、三陸新報の求人を聞いたとき、ちょっと受けてみようかなと思った。三陸新報が気仙沼で、7割ものシェアを誇る地元紙ということにも興味があった。何より自分で題材を見つけて動く記者の仕事はやりがいが違う。この仕事に出会えたことはとても貴重な機会をもらったと、いまも本当に感謝している。
防災に関して言えば、気仙沼の人々は震災の経験をどう繋げていくかという意識がとても高い。僕はいま、三陸新報で学校関係の分野を担当している。震災直後のことを知らないぶん、その分野での取材で学ぶ機会も多く、それを自分なりの視点で深めた記事でもっと広く世の中の人に伝えられたらなと思っている。
転職しても気仙沼に残ることを選んだ理由。それはここで色々な人に助けてもらったから。同じ境遇の移住者も親身に相談にのってくれたりして、本当にたくさんのご縁をもらった。あと、いまやっているメディアの仕事もここに残った理由。地元では体験できないことをやらせてもらっているという実感もある。気仙沼に移住して来る前と移住してきた後では、自分が成長したなと思うことも、ありすぎるくらい(笑)。あと正直に言えば、親の反対を押し切って移住してきた意地もある。このまま戻るのはカッコ悪いなと。
僕は地元の三重もとても好きで、いずれは地元に戻るかもしれない。でも気仙沼に居たいという気持ちもある。そんなことをずっと考えながらいまも暮らしている。僕は段階を踏みながら先のことを器用に考えていけるタイプじゃない。とにかくいまは一生懸命目の前のことをやるだけ。実のところ、学生時代は心理学も専攻していたけど、その意味ではまったく役に立ってない。いまだに自分のこともこんなに分からないくらいだから(笑)。

Profile

河村 俊秀さん
出身/三重県(Iターン)、26歳
仕事/株式会社 三陸新報:記者
移住5年目

震災後、被災地の復興を視察するなか、気仙沼の水産加工会社への就職を機に移住を決意。その後、気仙沼の人々とのつながりに魅力を感じ、退職後も同地で転職。現在は三陸新報社の記者として学校関連の教育分野を担当。

MOVIE

やりたいことが見つからない。実は私もそうだった一人。 大学は周りの友達に流されるまま仙台へと進学した。気仙沼と比べて仙台は都会で、買い物など何でもある。仙台では友達もたくさん出来て、あっという間の楽しい学生生活だった。その延長で就職も仙台でしようと一度は決めた。でも就活中もやりたいことは特になかった。これから私は何をやっていきたいのか、自分の中に探してみても何も見つからなかった。
そんななか、気仙沼に戻ってきたのは地元だったらこの先、何か見つかるかなぁという淡い期待から。とてもふわっとした動機。
2011年の東日本大震災のとき、私は中学3年生だった。私の場合、他の大人たちのように、震災がその後の人生にとって大きなターニングポイントになることはなくて、正直なところ、気仙沼で過ごしてきた地続きの人生のひとつの出来事くらい。
いまの会社との出会いも「気仙沼 事務 採用」と検索したら、一番上に出てきたという、ただそれだけ。そんな失礼な理由で行った会社説明会で担当の人と話をした。
仙台で就活した会社は、どこも「うちが欲しい人材はね…」と、何か型にはめる窮屈な感じだった。でも気仙沼商会の担当者は「あなたは何がしたいの?」と聞いてくれた。もちろん明確には答えられなかったけれど、私の話に耳を傾けて「あなたなら、こういう仕事がいいかもね」と、私に合う仕事を一緒に探してくれた。そんなふうに接してくれたことが、私自身を見てくれているようで嬉しかった。それで入社を決めた。
自分から頻繁に連絡をとるタイプではない私は、小中高と気仙沼で育ったものの、仲の良い友達がいない。だから新卒1年目の時は、なんで気仙沼に戻ってきちゃったのかなぁと思うこともあった。会社ではみんなが良くしてくれるが、年の近い同期もいなくてちょっと寂しい感じもあった。
気仙沼の人は、本当に大家族のよう。私自身、あまりに可愛がられすぎて、入社当初、自分は何もできないからかな、と少しだけ悩んだこともあるくらい。
人づきあいの苦手な私が就活で迷わず事務職を希望したのも、パソコンとだけ向き合っていればいいと思ったからだ。でも気仙沼商会で実際に仕事をしてみて、いい意味でそれは違った。ここに限らず、気仙沼にある会社は経営者との距離が近く、ちょっと緊張感もあるぶん、認めてもらえる達成感も身近にある。入社が浅くてもやりたいことがあれば任せてくれて、仕事の裁量も大きい。
実際、私も入社2年目にして、創立100周年の記念式典で招く招待客の選定を役員の方と一緒にさせてもらった。会社の顔でもあるイベントで、こんな重要なことを私がやっていいのかな、とちょっとびっくりした。その経験も自信につながった。
3年目となったいまは責任もある仕事も任されて、ガンガン人と関わっている。そのひとつでもある採用の業務では、自分の話に学生さんのリアクションがダイレクトに返ってきて、ああ人って楽しいなと、思えるようにもなった。そんな自分の変化も実感している。
あの頃の私と同じ悩みを抱える学生さんへ。気仙沼には会社だけでなく、まち全体にも新しいことをやろうという気概がある。これから何かに挑戦したい、新しいことを見つけたいと思う人はもちろん、やりたいことにまだ出会えていない人もぜひ、自分で自分の枠を決めないで、まず飛び込んでみて欲しい。気仙沼は人を育ててくれるまち。私自身の経験が参考になればいいな。

Profile

熊谷 未悠さん
出身/宮城県(気仙沼)(Uターン)・25歳
仕事/気仙沼商会勤務:総務
移住3年目

父母も兄も気仙沼育ちの生粋の気仙沼っ子。仙台の大学を卒業後、気仙沼に戻り気仙沼商会に入社。多岐に渡る総務業務のなか、自身の実体験をふまえ、学生に寄り添える身近な採用担当者として奮闘中。

魅力を探そ!チャーミング・けせんぬま

人も。まちも。海も。産業も。
みんながつながりあう、ひびきあう。
宮城県の北東端に位置する気仙沼は、リアス式海岸特有の美しい景観をもつ港町。
ダイナミックな造形美は、山海の豊かな恵みとともに観光地としても人気がある。
もともと天然の入江だった気仙沼湾は水深が浅いため、大きな商船が入港できず、大企業の資本も入らない時代の開発から取り残された場所だった。
だから気仙沼の人々は、自分たちのチカラだけでまちをつくりあげるしかなかった。
でもそれがいま、気仙沼らしい美観やどんな苦境も乗り越える、ガッツのある底抜けに明るい人々を育んでいる。
このまちを訪れる多くの人々が、山と海が織り成す穏やかで美しい気仙沼のまちの景色をこう賞賛する。
ここには他の港町でよく目にする、もくもくと煙突から煙を吐き出す工場の景色がないねと。
気仙沼は世界屈指の漁場がくれる豊かな海の恵みを資源に多くの地元企業が生まれ、まち全体がひとつの共同体となって連携しあう水産業都市。
どこかで誰かが笑えば、みんなが笑い合う。
どこかで誰かが頑張れば、みんなもまた頑張り合う。
挑戦することの大切さに共感するまち。
2011年3月11日の東日本大震災は気仙沼だけで1,000人以上の犠牲者をだした。
基幹産業であるまちの水産業も津波にのまれ壊滅的な被害を受けた。
港にあった事務所や工場は流され、多くの地元企業が廃業に追い込まれた。
瀕死の状態を乗り越え、かろうじて立ち上がった会社の経営者たちは、
自分たちのために、というそれまでの考えを捨てまちのため、みんなのためにと、手を取り合いながら歩んできた。
閉鎖的だった人々の視線も、いまは世界とつながる海の向こうへと放たれどうせ復興するなら震災前以上のまちにしようと、高い理想に向かって歩んでいる。
だから気仙沼には、このまちに必要なあたらしい感性を楽しむ共感力があふれている。
気仙沼の人は他の場所からから来た人にとってもオープン。
「どこからきたの」「ちゃんと食べているの」と、お節介なくらい、面倒をやきたがる。
魚や野菜のもらいものだって、ここでは日常茶飯事。
仕事も暮らしも家族のように親身になって相談にのってくれる。
ときには、サプライズな助け舟も出してくれる。
挑戦することの大切さに共感しているから、個人の頑張りや想いを応援してくれる。
気仙沼に移住した先輩たちはそうやって、いくつもの目標を叶えている。
人とつながる楽しさの中から学び成長できるまち、気仙沼。
それが気仙沼での仕事のエンジンだ。

失敗することも気仙沼では前進のひとつ。一歩一歩、先に進むひとに共感する気仙沼で挑戦って楽しいなぁ、と思える瞬間を贈りたい。

合同オンライン座談会

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