「東日本大震災」に
関する記事一覧
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【6月7日(日)開催!】オンライン気仙沼を元気にする会
\気仙沼のいまを知り、かかわり続けたい方へ/ 第12回、今年のテーマは「双方向でエールを!」 東日本大震災以降、関東在住の気仙沼出身者を中心に、ふるさと気仙沼を盛り上げようと立ち上がった 「気仙沼を元気にする会」をご存知ですか? いまの気仙沼を知り、お互いに関わりあえる!そんな機会をと、例年東京で開催されてきた「気仙沼を元気にする会」の交流会。 第12回目の開催となる今年は、新型コロナウィルスの影響により、初めてのオンライン開催。 気仙沼の「いま」をリレー中継で観ながら、みんなで話し合えたらうれしいです。 私たちMINATOも中継で、気仙沼の取り組みやまちのことなど、初夏の気仙沼の景色と一緒にご紹介できたらと思っています! 気仙沼出身者はもちろん、 ・気仙沼にいったことがある ・気仙沼に家族のような繋がりのある人がいる ・ずっと気になってたけど行けていなかった・・・など気仙沼に少しでも想いがあり、関わり続けたいという方、ぜひお気軽にご参加ください。 <開催概要> 日時:令和2年6月7日(日)10:00 – 12:00(講演・リレー中継) 場所:オンライン上にて zoomウェビナースピーカー:菅原 茂(気仙沼市長) 総合司会:佐藤 千晶(フリーアナウンサー) 動画出演:小野寺 五典(元防衛大臣)ほかリレー中継:気仙沼と各地から10人程度中継・動画で結びます <タイムテーブル> 10:00 開会 実行委員長 熊田 利英子 10:03〜10:50 講演 気仙沼市長 菅原 茂 10:50〜11:00 質疑応答 11:00〜12:00 リレー中継(気仙沼・各地から) 12:00 閉会 気仙沼サポートビューロー 代表理事 畠山 朔男 *お申し込みはこちらから 主 催:気仙沼を元気にする会・実行委員会 共 催:一般社団法人 気仙沼サポートビューロー 気仙沼市移住・定住支援センターMINATO お問い合わせ:genki@ksn-b.com
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まちを元気にする「人」を育てる―地域活性化のロールモデルづくりへの挑戦!
【地域おこし協力隊募集中!】気仙沼まち大学運営協議会 宮城県の最北端にある気仙沼市は、海と山に囲まれた人口6万人の地方都市です。 東日本大震災ではひともまちも産業も大きな被害を受けましたが、 今は地元の人と市外から来た移住者や支援者が連携して、復興へと歩みを進めています。 復興のキーワードは、「ひとづくり」。 高校生、若者、女性、まちづくり関係者、経営者向けの各プログラムを組成し、 それぞれの立場から新しい挑戦やまちの活性化を考える仕組みを作っています。 その結果、高校生が公民館を使った小学生の居場所づくりを始めたり、若者がまちづくり協議会に参画したり、 経営者が新商品開発や海外進出に挑戦したり…とさまざまなチャレンジが起きています。 今回募集する「気仙沼まち大学運営協議会」の地域おこし協力隊は、 さらなるチャレンジの推進と、市民全体への浸透を担うお仕事です。 気仙沼市が掲げる「ひとから始まる地方創生」の実現に向け、一緒にお仕事しましょう! 震災、少子高齢化、人口減……逆境を跳ね返すひとづくり チャレンジを後押しするために行っている「気仙沼チャレンジャーズピッチ」の様子 経営者同士が切磋琢磨する育成プロジェクト 気仙沼市は日本有数の港町として栄えた水産業の町です。 しかし、水産資源の減少や魚離れによって震災前から経済は下降気味でした。 追い打ちをかけたのは東日本大震災。事業所の8割が浸水被害に遭い、多くの事業所が操業停止状態に。 人口も一気に減少し、震災後1年で約1万人が、その後は年千人のペースで減り続けています。 ーこの苦境を変えられるのは、「ひと」だけ。 震災後、がれきだらけの町の中で避難所運営やコミュニティの再建、事業の復旧に励む人を見て、 市長は「ひとづくり」の可能性を感じたそうです。 震災後の2013年から経営者の人材育成を、翌年からは若者の人材育成を……という風にプログラムが増え続け、 今では高校生から経験豊富世代、まちづくりから経営まで5プログラムが毎年運営されています。 各プログラムはおよそ半年をかけて行われます。自分(会社)とまちを見つめなおし、 現状の課題を克服し、未来へ向けた自らの行動(経営)計画をつくります。 その結果、まちづくりでも経営でもさまざまなチャレンジが起きており、 その連環をさらに拡大させるためにできたのが、「気仙沼まち大学構想」です。 多様なリーダーを育てつつ、世代や分野、営利・非営利の壁を越えた大きな連携を生み出すことで、 新しいまちづくりや産業づくりをさらに推進していきたい――。そんな思いで始めた構想です。 今は、気仙沼湾を見渡す場所に市民が対話・交流する場をつくり、そこを拠点施設としてさまざまな企画を行っています。 しかし、まだまだ道半ば。 さまざまなチャレンジをつなげ、気仙沼というまちを持続可能にしていく挑戦は、まだまだ続きます。 気仙沼のまちづくり、ひとづくりにチャレンジする人を募集! 子どものためのデザインワークショップの様子 地元の若手経営者と市民のマッチングイベント こんな人に会ってみたい!! ・まちづくり、ひとづくりに関心のある方 ・人をつなぐためのイベント設計など、企画力のある方 ・やったことのないことでも積極的に挑戦できる方 ・こまごまとした事務仕事や雑用も嫌がらずにできる方 ・公共性のあるプロジェクトに関心のある方 ・人つなぎをするのに必要な、人への敬意とマッチングの勘所のある方 ・遠くにかすかに見える未来ビジョンに向かって一歩ずつ一緒に歩いてくれる方 ※全部を兼ねそろえている人はいないと思いますので、 一部でも当てはまったらぜひ! 気仙沼で海を見ながら働きませんか? 職場の窓から見える風景 運営を担当するコワーキングスペース「□ship」の様子 気仙沼市内のチャレンジの連鎖を後押しする仕組みづくりと、拠点施設であるコワーキングスペースの運営をしていただきます。 ・火曜~土曜(12:15~21:15)のうち週4日,32時間勤務が原則 ・給与 月20万円(期末手当、通勤手当) ・予算内で以下支出できます住居費補助(住宅探しもお手伝いします)、移動用燃料費代、 活動にかかる旅費等詳細については、気仙沼市地域おこし協力隊募集要項をご覧ください。 提出書類はこちらから:エントリーシート
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【12月30日全国放送!】NHKで移住者特番が放送されます!
気仙沼の移住者たちに密着した番組が放送されます! 移住者の赤裸々なホンネが紡ぎ出す 震災8年の物語 宮城県気仙沼市唐桑地区。東日本大震災以降、この小さな漁村に、20~30代の若者たちが全国から次々と移住。唐桑の魅力を発見し、新たなつながりを生み出し、村の様子を一変させています。 彼らはなぜ唐桑に移住し、いまどんな思いで日々を過ごしているのでしょうか? 移住者の赤裸々なホンネから紡ぎ出される震災8年の物語とは…。ぜひご覧ください!! 【番組名】明日へ つなげよう「ボクらが被災地に住む理由 ~移住者たちの本音~」 【放送予定】12月30日(月)[総合]前10:05 【ナレーター】俳優・千葉雄大さん ▶ 番組ホームページ 動画:明日へ つなげよう
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【UIターンインタビュー】仙台と気仙沼。複数拠点で「暮らすように、働く」
複数拠点、複数ワークという生き方 移住だけが大好きな町との関わり方ではない。所属や場所に捉われることのない自由な働き方。そうした生き方のなかで、気仙沼という町に関わり、次第にその濃度が濃くなっていく。それも町の魅力化につながる。 宮城県仙台市出身の江川沙織さんはそんな生き方を通じて気仙沼に関わっている一人だ。住まいは仙台市。仕事は気仙沼市に拠点を置く認定NPO法人底上げ、そして岩手県で活動するNPO法人wiz.で、それぞれプロジェクトに関わっている。 気仙沼では地域の高校生と大人の対話の場作りや、東北の高校生が渡米し、地域貢献とリーダーシップについて学ぶプログラムのサポート、そして岩手県では大学生の実践型インターンシップのコーディネーターのサポートや、地域おこし協力隊の活動支援などを行う。それ以外にもプロジェクトベースでの仕事も多いという。 「ふだんは家で仕事するか、近くのカフェで仕事することが多いですね。ミーティングもオンラインでやれますし、パソコンがあればどこでも仕事ができてしまうので。必要に応じて数日間から1週間、2週間など現地に滞在して仕事をするという暮らしを送っています」 ちなみに、取材時の前後のスケジュールを伺うと、4日間ほど気仙沼に滞在し、そのまま岩手に移動して1週間ほど滞在する予定だという。なんともハードなスケジュールのようだが、江川さん本人はどこ吹く風。「それぞれしばらくぶりの現場で、会いたい人たちにも会えるので楽しみで仕方ないですね」と充実感をにじませている。 気仙沼滞在時は認定NPO法人底上げが管理するシェアハウスで過ごす 震災後、Uターンした東北で感じた「明るい兆し」 幼少期から過ごしてきた仙台は「イベントやアート、音楽などはほとんどが東京でやられていて。なにもない町と感じていた」という。大学進学とともに故郷を離れ、関東へ。卒業後は、金融機関で働いていた。しかし家族の介護をきっかけに地元仙台へのUターンを考えていた矢先、東日本大震災が故郷を襲った。幸い江川さんの実家は無事。家族とも震災の翌日には連絡がついた。その後、仕事を退職し、4月末には実家に引っ越した。金融機関でのキャリアを生かし、被災地各地で震災復興に取り組むNPOや市民活動のサポートを行う財団法人で活動を開始した。 震災復興に取り組む団体が直面する最大の課題が財政面でした。国内外から集まる寄付などの受け皿となり、支援団体へとつなぐ役割を担っていました」 岩手・宮城・福島の3県にまたがって活動していた江川さん。何よりも驚かされたことが、全国各地からおもしろい人材が東北に集まってきていることだった。 「震災前に実家に帰っても東北に元気がないのを感じていて。さらには震災が起こって、このまま衰退していくんじゃないかと思っていたんです」。しかし各地で出会った人たちによってこの考えが180度変わった。「衰退していくばかりと思っていた故郷が、いつの間にか『おもしろい地域になるんじゃないか』というワクワク感、明るい兆しを感じていたんです」と話す。 現在活動する認定NPO法人底上げをはじめとする気仙沼との出会いも、この財団法人での活動を通じてのものだった。 「助成先団体のヒアリングというかたちで気仙沼には何度も足を運ばせてもらいました。そのたびに感じていたのは、非常にオープンな気質の人が多いなということ。そして団体間や個人同士の仲が良いなって思いました(笑)とってもアクティブで市民のアクションが非常に多く生まれているので、どんどん面白くなっていくのではないかと感じていた」と、初めて気仙沼に出会ったときのことを振り返る。 大学時代にはバックパッカーとしてアジアを旅するなどアクティブに過ごした 復興、まちづくりの現場のより近くで!という想いでキャリアチェンジ 「約3年半、NPOのサポートをしていくなかで、より現場に近いところで働いてみたい」という想いを抱くようになった江川さん。勤めていた財団法人を退職し、しばらくフリーに過ごしていたときに、現在も働いている岩手と気仙沼の団体から声がかかった。 もともと明確に複数キャリアを意識していたわけではない。縁に導かれるように、求められることと、自分自身のやりたいことを、紐付けていった結果が複数キャリア、そして複数拠点という生活スタイルになっていった。 「仕事と暮らしが融合している今のスタイルがとても心地よいんです。その日どこで何をするのか、自分次第」。家で仕事をするのも、カフェで仕事をするのも、趣味であり息抜きだという料理を作るのも自由。息抜きにパソコンを抱えて海外に10日間ほど飛び出すこともある。 仕事のなかに、暮らしが入り込み、暮らしのなかで仕事をする。仕事(ワーク)と暮らし(ライフ)の線引きをする「ワークライフバランス」とは逆行するような働き方。 世間一般でいう「安定」とは程遠い。決まった休みもあるわけではない。それでも、「自由にできるこのスタイルが今はとても気に入っている」という。取材中、彼女は事あるごとに「まあ、なんとかなるかなと思って」と口にしていた。「移住」や「定住」から想起される「決意」といった言葉とは無縁の、考えすぎず、軽やかに、自然体でいること。それがふとしたタイミングで巡ってくるチャンスを掴めた秘訣なのだろう。 「複数拠点、複数ワークは自分の視野を広めてくれる。それぞれの仕事にとってもプラスになっていると思う」と話す 多様な関わり方を応援してくれる町 「気仙沼に来ると『おかえりー!』『今回はいつまでいるの?』とみなさんに声をかけていただける。この雰囲気はとってもあたたかいなって」 かねてから漁師町として、国内外から多様な人々を受け入れてきた町は、「新しい働き方」「自由なライフスタイル」にも寛容なのかもしれない。 仙台から気仙沼は直通の高速バスで2時間半。海も山もある豊かな自然のなかには、コワーキングスペースもあれば、気分転換しながら仕事もできるカフェもある。 「場所を選ばず仕事をできる人は、おすすめの地だと思います。制作に没頭したり、息抜きしながら作業するのにもおすすめなんじゃないかなって」 働く場所ということにおける選択肢はこれまで「都市 or 地方」だった。地方で働くには「移住」という大きなハードルを乗り越えなければならなかった。 しかし、江川さんが実践する複数拠点での働き方は「都市 and 地方」を実現している。 震災から8年を迎えた。復興事業も終わりが見え始め、町は新たなフェーズへと移っていく。江川さんも「この5年から10年が勝負だと思う」と話す。そんな町にあって、「新しい価値観のもとやりたいことをやれること」そして、「チャレンジを応援してくれること」は何よりもの強みになるのかもしれない。 移住するだけが気仙沼との関わり方のすべてではない。多様な関わり方を応援してくれる町。地元住民も、Uターンも、Iターンも、複数拠点のひとつとして関わる人も、みんなで、前に歩みを進める。そんな気仙沼の強さを、江川さんの姿を通じて垣間見えた気がする。 「底上げ」の活動中の一コマ 江川沙織(えがわ さおり)さん 宮城県仙台市出身。1983年生まれ。高校まで仙台で過ごし、大学進学で仙台を離れ神奈川の大学に入学。学生時代にモンゴルへ植林ツアーに行った事をきっかけにNPOとファンドレイズの関係性に興味を持ち、卒業後は金融機関でキャリアをスタート。2011年4月に地元にUターンし、公益財団法人地域創造基金さなぶりにて活動。2015年よりNPO法人wiz(岩手県)と認定NPO法人底上げ(気仙沼)にて複数拠点、複数キャリアのライフスタイルをスタート。 *このインタビューは2018年冬に行ったものです
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【11月30日 開催】気仙沼を元気にする会
\気仙沼のいまを知り、かかわり続けたい方へ/ 東日本大震災以降、関東在住の気仙沼出身者を中心に、ふるさと気仙沼を盛り上げようと立ち上がった「気仙沼を元気にする会」をご存知ですか? その第11回目となる「気仙沼を元気にする会」の次回開催日が決まりました! 今の気仙沼には若い移住者が増えている、それはなぜか?そんな気仙沼で起きている新しいチャレンジ、人が育つ仕組みとは? 今回は我々MINATOも関わらせて頂き、新しく起こっている今の気仙沼の取り組みをご紹介させて頂きます! 気仙沼出身者はもちろん、 ・里帰りでよく気仙沼に行っていた ・気仙沼にいったことがある ・気仙沼に家族のような繋がりのある人がいる ・ずっと気になってたけど行けていなかった ・・・など 気仙沼に少しでも想いがあり、関わり続けたいという方はぜひ足をお運びください! <イベント概要> *日 時 :11月30日(土) * 時 間:11:00~14:30 * ゲスト:インビジョン株式会社 小山晃宏/ 気仙沼市移住・定住支援センター MINATO 加藤拓馬/加藤航也/加藤広大 *タイムスケジュール 10:30~ 受付開始 11:00~12:15 ゲストの話 12:20~14:30 懇親会と気仙沼市長の話(懇親会は立食と飲食付きです) *会 場:銀座ライオン大手町ファーストスクエア店 住所 東京都千代田区大手町1-5-1大手町ファーストスクエア地下1階 Tel.050-5269-7101 *会 費:一般 5,000円 学生 2,000円 *お申し込み:こちらの「気仙沼を元気にする会」公式HPよりお申し込みください。 *主 催:気仙沼を元気にする会実行委員会 *共 催:気仙沼市移住・定住支援センターMINATO/一般社団法人気仙沼サポートビューロー
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【開催レポート】けせんぬましごとカフェvol.4 in 仙台
今回は、気仙沼地域開発㈱スペシャル! 来年度新しく内湾に完成する商業施設の事業施行及び管理をする会社です。 大島へのフェリー乗り場がある、まさに気仙沼の「顔」となる場所に新たに出来る商業施設。 津波で流されてしまったあの場所を、新しく作り上げる。そんなお仕事です。 ☆気仙沼地域開発㈱:千葉裕樹氏 2011年3月11日。東日本大震災によって三陸沿岸は多大なる被害を受けました。気仙沼市も産業・商業の中心であった内湾エリアを含め、大きな被害を受けました。特に、気仙沼市の基幹産業である漁業に対する被害は大きく、震災から6年半経った今も完全なる復旧には至っていません。気仙沼市が本当の意味で復興していくためには、震災前の状態に戻るのではなく、「100年先を見据えて」新しい産業基盤、新しい人の流れを生み出す、これまでにないまちづくりをしていく必要があります。今回の事業は、まさにその意志を象徴するものとなります。 https://drive.media/career/job/18218 まずは、恒例のスタッフ含めた参加者全員の自己紹介! 今回は、8割の方が気仙沼出身者また気仙沼出身者ではない方も頻繁に気仙沼に来られている「気仙沼愛」の濃い回となりました! 同じ地区の出身の方がいると、思わず反応して知り合いがいないか確認する。繋がりの多い町気仙沼ならではの”あるある”も! 次にスタッフからの「中小企業で働く面白さ」の説明があった後は、地域開発の千葉さんからの企業説明です。実は気仙沼出身の千葉さん、2年前にUターンしてきました。 気仙沼の顔を作り上げようとしているこの会社で、1人実働部隊として東奔西走するからこそ、気仙沼の良いところだけでなく、ダメなところも嫌なところも十分すぎるほど経験されました。それでも「気仙沼から出ていった先で家を建てる同級生が、『ああしまった。気仙沼に家建てればよかったな』そう思うような、気仙沼にする」と語る言葉には熱がこもります。 気仙沼中が期待を寄せる場所を担う、その覚悟の底に、圧倒的な情熱と気仙沼愛を感じます。 千葉さんからの説明の後は、ワークショップに移ります。 テーマはずばり「内湾を盛り上げるアイディア100本ノック」まだまだ建設途中の内湾商業施設。新設される施設では、たくさんのイベントを催す予定です。そのアイディアを参加いただいた皆様にエリアマネージャーとして考えて頂きました! アイディア100本ノック!どんどん付箋に意見が書かれてゆくのは、気仙沼への想いがたくさんあるからでしょうか? 個人で出したアイディアを2グループに分かれてシェアしてもらいました。 「食器やカトラリーを持ち込んで、フードを買えるように!」 「ケンカOK荒くれ酒場を作る!」 「おちゃっこ飲みブースを設けて、子どもと大人が共存できる場所をつくる!」などなどなど!たくさんの意見がでました。 出た意見の中には、既に実際に動き出している案も! また、今回のワークショップで改めて実行を決意した案もあったりと、気仙沼の顔を作る為に参加者全員の想いを分かち合えた時間となりました。 スタッフによる気仙沼での暮らし方紹介をし閉会した後も、様々な方と懇談される姿が会場撤退時間ギリギリまで見られた今回のけせんぬましごとカフェvol.4。 働くことだけでなく、気仙沼で起きていることに仙台でじっくり関われる時間が生まれたのではないかと思っています。 気仙沼で働くことは、気仙沼で暮らすこと。どうせ移り住むなら、気仙沼愛を温めて、ワクワクして、気仙沼に来ませんか? 「けせんぬましごとカフェ」これからも開催していきますので、ぜひお気軽に足を運んでください。 ○開催概要 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ □日にち:2018年2月9日(金) □時 間:19:00〜21:30(開場 18:30) □場 所:ソシラボ(宮城県仙台市青葉区一番町2丁目2-8 IKIビル10F) □参加費:無料 □服 装:自由 □タイムライン 19:00 開会・アイスブレイク 19:30 募集内容紹介「内湾まちづくりプロデューサー」→今回の求人内容や事業の詳細についてご紹介 20:00 ワークショップ「内湾を盛り上げる100本ノック」 21:15 気仙沼の暮らし紹介 21:30 終了
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【UIターンインタビュー】スキルを活かし、町を輝かせる。
デザイナーとして夢のような光景 自らデザインしたものが、雑誌で特集され、有名店に並ぶ。街を歩く若者たちがそれを身につけている——。 デザイナーになるという夢を追い求め、気仙沼市唐桑町から東京に上京した鈴木歩さんにとって、渋谷原宿といった若者が集う街で、そんな夢のような光景が広がっていた。 「実家が呉服店を営み、小さいころから美術の先生になりたいと思っていたんです。より深く学ぼうと、町を離れ進学した仙台の高校でデザインに出会いました。当時は地方でデザインの仕事ができるとは思ってもいなくて、デザイナーとして成功したいという夢のために東京に出てきた。大学の教科書の制作などデザインの基本となるDTPを実践のなかで学んだりと、地道にキャリアを積んでいました。転職したファッション雑貨を手がける会社でデザイナーとして働いていた時に、ヒット商品が生まれました。自分が手がけた商品が街に溢れる光景を見て、本当に嬉しかったんです」 夢だったデザイナーとしての成功へ大きな足がかりとなるはずだった、ヒット商品の誕生。東京での生活は、苦労も多かったが、その分、充実感と意欲に満ちたものだった。 大好きな故郷を襲った東日本大震災 そんなとき、東日本大震災が鈴木さんの故郷を襲った。 テレビを通して流れる故郷気仙沼の状況に、「映画を見ているようで、まるで自分ごととは捉えられなかった」と鈴木さんは振り返る。実家とも連絡がつながらないなか、姉と兄と共に、物資を積んだトラックで実家に走った。無心になって車を走らせ、辿り着いた故郷。そこに、生まれ育った港町の面影はまったくなかった。 「今まで弱音ひとつ見せずに厳格な父親像を貫いていたお父さん。下にうつむき涙をこらえている後ろ姿を見たとき、胸に込み上げる想いがありました。」 壊滅的な被害を受けた故郷は、鈴木さんが大好きな町だった。気仙沼市街地から車で20分。複雑に入り組むリアス式海岸特有の雄大な景観が楽しめる唐桑半島。 「小学生のときが本当に楽しくて。岸壁で釣りしていると近所のおじちゃんがウニをくれたり。半年かけて、地元の竹を組んで浜全体を装飾していく祭りがあったり、唐桑の漁師が寄港した世界60ヶ所以上の料理を地元の食材で再現するイベントがあったり、とにかく親世代がまちづくりにとても熱心な環境だったと思います。『田舎だから嫌だ』って思いはなくて、本当にキラキラしていたイメージだった。中学卒業とともに町を離れてしまったけれど、あの頃の父親世代のまちづくりに熱心だった大人が単純にたのしそうで、それでいてかっこよくて。『自分も大人になったらあんな風になりたいなあ』と憧れを抱いていた」と話す。 そんな大好きな町の大きな被害に鈴木さんは落胆した。しかし、震災を生き延びた気仙沼の人々に触れていると、海とともに強く生きる唐桑の人々の心は変わっていなかったことにも気づかされた。 「すぐにでも地元に帰りたかったけれども、当時、デザイナーはまったく必要とされていなくて。私自身、戻ったところでなにができるんだろう、という思いがありました。自分自身の力を発揮できるタイミングがくるまで、東京で頑張ろうと思ったんです」 「デザイン」の意味を自問自答し、故郷へUターン 東日本大震災からの日々は、彼女の夢であった「デザイン」に対する想いにも変化をもたらした。 「これまで、雑貨などのプロダクトをデザインしてきて、ヒット商品も生まれ、とても充実していました。でも私がデザインしたものは、津波で流されてしまって…。結局誰を幸せにするものなんだろう?モノってなんだったんだろう?と考えるようになったんです。これまで大量生産、大量消費のデザインに関わってきたからこそ、モノの価値、そしてデザインのもつ意味を深く考えさせられたんです」 そんな想いを抱えつつ、東京で自らのスキルを高めていた鈴木さん。震災から3年経つころになると、復旧から復興へとフェーズが変わっていった。 「そのころになると気仙沼でも工場が建ちはじめ、新しい商品ができるようになっていました」 そんな折、都内のイベントに参加をした鈴木さんは、気仙沼でデザイナーを募集していることを知った。しかも実家から10分ほどの場所。 「これは運命だ、と思いました。それでも、夢を叶えてくれた東京での生活も嫌いではなかった。気仙沼に戻って、今後もデザインをやっていけるのか不安は大きかった」と話す。しかし、それとは裏腹に「今戻らなきゃ」という想いが次第にどんどん強くなっていった。 そして、「デザインで地元の役に立ちたい!」という想いのもと、2013年8月に出身地の唐桑に戻ってきた。以来、ホームページのデザイン、新商品パッケージのデザイン、企業ロゴデザインなど、自らのスキルを活かして地域の魅力を発信している。 「地方」で自ら可能性を手に入れる 地方でデザインの仕事をしていくにつれ、鈴木さんのなかに意識の変化があった。 「東京で仕事をしていたときは、消費者のことばかりを考えてデザインしていたなと感じたんです。ここではより作り手を意識してデザインと向き合えています。伝えたいことや想いがあって依頼してくださった方の想いをしっかりと受け止め、作り手の伝えたい想いが欲しい方に届く。発信をしていきたいと思っています。『ありがとう』って泣いて喜んでくれた方もいて。気仙沼でデザインをするということは、大きな決断だったけど、ここでやってきて本当によかったなと思っています」 地方でデザインの仕事はできない、と思っていた。しかし地方こそモノづくりの現場があり、その作り手たちの想いをカタチにすることで仕事は生み出せることに気づいた。 震災直後、キャンドルを灯して家族で囲んだ食卓が忘れられずに、制作した『pensea SEASIDE CANDLE』。気仙沼の輝く海をイメージしている(写真提供:鈴木歩) しかし、地方ではデザインにハードルの高さを感じている市民が多い現状があることも事実。デザインをより身近にするために、鈴木さんは子どもたちに注目した。 「自分の描いたものをデータにして組み合わせたり、iPadを使って色をつけてみたり、写真を組みあわせてみたり、子どもたちがデザインに触れられるワークショップを行っています。まずはデザインを身近に感じてもらいたい。そして子どもたちがデザインに興味をもてば、自然と親も変わっていくと思うんです」 地域の子どもたち向けのデザインワークショップを行う鈴木さん 「地方」だから、やれることに限りあるのではなく、未開拓の「地方」だからこそ、可能性は無限だ。自らのスキルを活かし、地域を盛り上げ、さらにその活躍の場を自ら開拓していく。そんな鈴木さんの生き方に、地方でのスキルを活かし方のヒントが隠されているのかもしれない。 若手経営者に向けた人材育成プログラム「経営未来塾」に参加するなど、自らの活動領域を広げることにも取り組む (前列左から4番目が鈴木さん) 鈴木 歩(すずき あゆみ)さん 気仙沼市唐桑地区出身。1980年生まれ。中学卒業後町を離れ、仙台の高校へ進学。デザイナーを志し、上京するも東日本大震災を契機に2013年8月に故郷唐桑にUターンした。現在はスキルを活かし商品パッケージや広報、WEBデザインなどさまざまなPRを手がけている。趣味は、大好きな海をフィールドに遊べるサーフィン。
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【UIターンインタビュー】仕事と暮らしが重なり合うまち
さまざまなスタイルの移住があってよい 今年4月、気仙沼市移住・定住支援センター MINATOの窓口に新たな仲間が加わった。千葉可奈子さん。朗らかな笑顔と面倒見のよさで、移住を考えている人、気仙沼に移住した人々の相談相手として活躍している。そんな彼女自身、生まれも育ちも気仙沼。大学・社会人時代を関東で過ごし、今年の4月に気仙沼に戻ってきた。 「私自身、Uターンすることに関してはたくさん悩んで、東京で開催される移住フェアや地域創生などのイベントにたくさん行きました。そんな自分自身の経験も踏まえて移住を考えているみなさんや移住してきた方々とお話しできたらいいなと思います」 移住したい人がどういう気持ちで、どういう情報を求めているのか、どういうイベントに行ってどういう気持ちになっているのかなど、自らが経験したからこそ語れることがある。 「起業してバリバリやっていく人もいれば、スキルがあってそれを地方で活かせる人もいる。だけど私はスキルもないけど、気仙沼がただ好きで、地元で暮らしたいという想いで戻ってきた。もちろん不安もあったけど、今は本当に楽しく生活できているんです。だからこそ、さまざまな移住のスタイルがあってよくて、私のようにスキルもなくて、ただ想いだけで、という人にも楽しめる町なんだって伝えていきたいんですよね」と話す千葉さん。 「『気仙沼はどんな人でも一歩踏み出せば景色が変わる町』。その一歩を踏み出す後押しをできたらいいですね」と目を細めた。 故郷を離れてはじめてわかる、気仙沼のぜいたくさ 気仙沼市松岩地区出身の千葉さんは、鮮魚仲買の会社を営む一家の娘として育った。中学時代にはジュニアリーダーとして活躍するなどアクティブな幼少期を送り、高校は地元の鼎が浦高校(現気仙沼高校)に進学。 「とくに高校時代はとっても楽しかったですね。とにかく行事が盛んな学校で、月に1回くらいは行事があるような。今思えば、このときの経験が『みんなで成し遂げることの楽しさ』を味わうきっかけだったのかもしれませんね」 高校卒業後は、気仙沼から離れた群馬県にある大学に進学。港町、しかも家業が鮮魚仲買という海とともに生きる生活を幼少期から自然と送っていた千葉さんにとって、海なし県・群馬の衝撃は大きかったという。 「なんといっても真っ白なイカに驚いたんです(笑)。刺身は透明なのが当たり前だと思っていたので……。今まで当たり前だと思っていたことが当たり前じゃないんだってことにそのとき気づいたんです。気仙沼での生活は恵まれたものだったんだなって。大学の夏休みは丸々気仙沼に帰っていましたね」 一度故郷を離れたことで気づいた気仙沼の魅力。そんな大好きな町を大きく揺るがした東日本大震災が発生したのは、前職の最終採用面接中だった。 故郷のことを気にかけながらも「まずは自分に与えられたことをしっかりとやること」と、4月に入社した東京の会社で仕事に打ち込もうとした。しかし、帰るたびに変わっていく大好きだった気仙沼の光景に、「どんどん知らない町になっていくような感じでした」と話す。いつしかそんな故郷のことを、東京にいながら毎日考えるようになっていった。 「自分が、Uターンを決心するまでたくさん悩んだし、情報も手に入りにくかった。だから気仙沼で暮らしたいと思っているけど踏ん切りがつかないひとの気持ちはよくわかる」と話す 自分の人生は自分でつくらなくては! まわりの人が仕事や、趣味、結婚といったことに楽しみや価値を見出しているなか、千葉さんはなかなかそこにたどり着けない自分にもどかしさを感じていた。 「この仕事をずっと続けていくと決心もできなかったし、そのうえ30歳も目前に彼氏にフラれ、どん詰まり感がすごかった(笑)」と東京での生活を振り返る。 「次第に、自分の人生は誰かが責任をとってくれるものではない。自分でやりたいことをやらなくてはいけない、という危機感が募ってきたのです。どうやって生きていくか、どういった仕事をして、どうやって暮らしていくか、という自問自答を繰り返していました」 さまざまなイベントに参加したり、自分自身と向き合う時間を重ねていくなかで、自分が育った大好きな町、気仙沼で仕事も暮らしも充実させていきたいという気持ちが揺るぎないものになっていった。その後、都内の飲食店で開催された気仙沼のイベントに参加をした際に、現在の仕事に出会った。 気仙沼に戻ってきた今、千葉さんは、仕事が休みの日も、地域で開催される行事に顔を出したり、手伝ったり、夜も仕事や地域の仲間と打ち合わせや飲みに出ることも多い。プライベートと仕事の境はない。それでも「仕事と暮らしを切り離すのではなく、仕事と暮らしが重なり合っているようなライフスタイルを送れています。東京にいたときには考えられなかったこと。それが今はとっても心地よい」と顔をほころばせた。 仕事をすることで、学びや喜び、そして人のつながりが得られる。それは生活の充実につながる。どん詰まりだった人生を一歩踏み出した先にあったのは、仕事と生活が重なり合い、笑顔あふれる日常だった。 「職場の仲間は公私ともに刺激をし合える関係」と千葉さんは話す 気仙沼を盛り上げる仲間とともに 「気仙沼に帰ろうって決めても、なかなか情報を手にいれることができなくて。仙台や岩手で一度経験を踏んでから…ということも頭をよぎったのですが、あまり考えすぎず、まずは飛び込んでみようと。『えいやっ』という気持ちで気仙沼に戻ってきたんです。こんなにたくさんの移住者がいることも知らなかったし、なによりも同世代の人たちが、地元を盛り上げようって仕事をしながら頑張っていることをはじめて知ったし、とても感動したんですよ」 変わっていたのは、町の光景だけではなかった。さまざまな人が集まり、地域を盛り上げようとする団体があり、地元の人も、移住者も、Uターンした人もいっしょに町を盛り上げていた。 「気仙沼に生きる人たちをとっても尊敬しているんです。なんだりかんだり文句言いながらも結局みんな気仙沼のことが大好きで、自分たちの町のために活動している人がたくさんいる。自分もその輪に入っていきたいなって」と話す千葉さん。地域の女性視点で観光PRを行う「気仙沼つばき会」で活動したり、地域の活動に参加することで、日々自分の中の気仙沼が新しくなっていく。 「私は特別なスキルも持っていないし、何かに秀でているわけではない。気仙沼が好きという気持ちひとつで戻ってきた。でもここで出会ったすばらしい人たちを応援したいし、その輪に入りたい、という想いがあります。そして、私のように、地元愛があるんだけど、都心でモヤモヤを抱えながら仕事をしている人たちの第一歩を踏み出す後押しをしていきたいですね」と意気込む。 「30歳も越えて実家に戻ってきて、正直幸せになれなくてもよい、という思いで帰ってきたんですけど、今めっちゃ幸せです」そう語る千葉さんの弾けるような笑顔が、気仙沼の魅力を最大限に物語っていた気がする。 「震災後、移住者などが多く集う気仙沼はとっても楽しい町!毎日ワクワクが止まらない町です」(千葉さん) 千葉 可奈子(ちば かなこ)さん 気仙沼市松岩地区出身。1985年生まれ。高校まで気仙沼で過ごし、大学進学で町を離れ群馬の大学に入学。卒業後、東京の企業で経理職を担う。2017年4月に地域おこし協力隊として故郷気仙沼にUターン。「気仙沼市移住・定住支援センター MINATO」に配属。自身の体験も踏まえた移住定住支援を行なっている。息抜きは海岸線をドライブすること。
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【UIターンインタビュー】仕事も、家族も、地域も楽しみ尽くす
震災そして復興へ。揺れる故郷への想い 気仙沼生まれ、気仙沼育ちの廣野一誠さんは、東京の大学を卒業後、外資系大手のコンサルティングファームに勤務し、広告・マーケティング関連のベンチャーの立ち上げに関わった。私生活でも、2010年に結婚するなど充実した生活を送っていた。 「家業があるので、いつかは気仙沼に戻ってこようと思っていましたし、妻にもそう話していました。ベンチャー企業に参画したのも将来の経営を見据えてのことでしたが、『まだ早い』と、踏ん切りできずにいたんです。そんなときに東日本大震災が起こりました」 震度6弱の揺れ、そして大津波は廣野さんの実家・気仙沼を襲った。 廣野さんが気仙沼を訪れることができたのは、震災から2ヶ月近くがたったゴールデンウィークのことだった。幸い家族は難を逃れたが、実家も1.5mほど浸水。家業の社屋は流出。大きな被害を目の当たりにした。 故郷の被害を見て、「実家に帰る」という言葉が廣野さんの脳裏によぎった。 しかし、「今戻ってきても迷惑をかけてしまうだけではないかと思ったんです。まずは東京でちゃんと仕事をして、自らのスキルを伸ばし、貢献できるような人材にならなくては、と先送りにしてしまった」と話す。2012年夏には長男・真之(まさゆき)くんが誕生。そんな廣野さん一家の転機となったのは、2013年夏のことだった。 「気仙沼に帰省したとき、がれきの撤去が進み、きれいに更地になっているの故郷の姿を見て『本当に大変だった時期に、俺はなにもしなかった、なにも貢献することができなかったんだな……』と後悔したんです。いつか、いつか…東京での仕事で成果をあげて、自信がついたら、気仙沼に帰ろうと思っていました」 けれどそれを言い訳にしている自分にも気づいた。その夏、妻・香苗さんに「気仙沼に帰ろうと思う」と打ち明けた。そこから、住まいの確保や会社の引き継ぎなどを行い、2014年12月廣野さん一家は気仙沼の地へと引っ越した。 「Uターンへの第一歩として、とにかく住む場所を決めることからはじめました」と廣野さんは話す 地方でしか味わえない仕事の喜び 家業であり、廣野さん自身が現在、専務取締役を務めるアサヤ株式会社は、「漁民の利益につながる、よい漁具を」の理念のもと、1850年の創業以来、三陸の漁業を支えてきた。一誠さんで七代目となる老舗の漁具屋。 Uターンとして、地元企業に経営者という立場で戻ってきた廣野さんは、採用活動などを通して「地方で働く意味」を改めて考えさせられることになったという。 「東京で働いていたときは、自分より目立つ仕事をしている人間が山のようにいました。そのなかで、自分が重要感を感じられる仕事をすることは本当にハードルが高かった。自分が埋もれてしまうような感覚になっていたんです」 東京にいると、目の前の仕事がどのような役にたつのかがわかりにくいことが多い。でもここでは、漁師さん一人ひとりに喜んでもらえるーー。 アサヤ株式会社にインターンしていた東京の学生が発した言葉だという。 「もちろん会社の経営規模やGDPなどの貢献度でいったら東京のそれにはかなわない。しかし、人の顔が見えて、自分も埋もれず、お客様にダイレクトに喜んでもらえることで、人生をかけて意味のあることをやっているんだ、ということが地方の仕事ではわかりやすいかなと思っています。地方ならではの使命感、達成感、充実感を得やすいですよね」 対組織の関係ではなく、対個人の顔が見える関係で仕事ができることの喜びは地方ならでは(写真提供:アサヤ株式会社) さらに、廣野さんは、自身の会社のほかにも、「気仙沼さん」というECショップの運営、「ちょいのぞき気仙沼」という地域での体験型観光、さらには地域の青年会議所にも入って活躍している。 経営者でもあり、パパでもあり、地域でも活躍する。そんな廣野さんの原動力となるのは「恩返し」という気持ちだった。 「気仙沼に戻ってきたのは2014年の冬。震災があってからいちばん大変だった3年半の間、アサヤを支えてくれた社員のみんな、そして気仙沼を支えてくれた町の仲間たちには頭が上がらないんです。これまでありがとう、そしてこれからはバトンをもらった自分が、会社も地域も盛り上げていくから!という思いなんです」 心の知れた青年会議所のメンバー(写真提供:廣野一誠さん) 人とのつながりで楽しみを作れる町 気仙沼にUターンしてから3年弱。次男・善昭(よしあき)くんも誕生し、この夏には第三子も誕生した。家族ともども気仙沼の暮らしを満喫する廣野さんは「この町は人のつながりがあれば、とても楽しめる町」と魅力を話す。 休日は友人とバーベキューをしたり、家族でイベントに出かけたり。 「東京にいるときは、お金を消費することでしか楽しみは得られなかった。確かに東京のような娯楽施設はないけれど、ここには人とつながれば楽しみを生み出していける」 妻の香苗さんも、千葉県出身ということもあり移住にあたっては「不安ももちろんあった」と話すが、地域のママサークルなどでママ友ができることで不安は解消されていったという。 さらに、気仙沼の環境は子どもにとってもストレスを和らげることにつながるのかもしれないと思うことがあった。長男・真之くんは東京で暮らしていたとき、車の音や外からの明かりですぐに起きてしまう子どもだったという。 「寝つきが悪いんだなと単純に思っていたんです。しかし、夜は本当に静かで車通りも少ない気仙沼に来たら、すごい寝つきがよくなって。朝までまったく起きないようになったんです。明かりや音、振動など大人では気にしないような小さな変化が子どもにとっては大きく影響するのかなって思いました」 日用品は市内で、車で1〜2時間の一関や仙台にショッピングに行くこともあるという 具体的なイメージをもって動くことが移住の一歩 漠然と描いていた「Uターン」という思い。その思いが「決意」に変わったのが、東日本大震災であり、廣野さんにとってのUターンの第一歩は「安心できる住まい」の確保だった。 「たまたま私は、家業があって仕事が決まっている状況でした。東京で家族をもって、仕事をしている人が、移住を決意するのはなかなかむずかしい。『どういう仕事をしてるのか?』『どんな暮らしを送っているのか?』を具体的にイメージして、私がとにかく住むところを決めることで一歩進めたように、何かをまず決めてしまうことがいいのではないかと思います」と話す廣野さん。 大きな娯楽施設はない。けれど人のつながりは人一倍強い町、気仙沼。自然も豊富にあるこの町は、町まるごと遊び場であり、学び舎でもあるのかもしれない。 そんな町に一家で移住した廣野さんの暮らしぶりは、ひとつのヒントになるのかもしれない。 廣野 一誠(ひろの いっせい)さん 気仙沼市八日町出身。1983年生まれ。小学校まで気仙沼で過ごし、中学・高校は大阪、早稲田大学へ進学。卒業後、東京でITやコンサルティングの業務を行っていたが、2014年12月に気仙沼へUターンし、家業の漁具販売を営むアサヤ株式会社で専務取締役として活躍中。
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【UIターンインタビュー】島の未来を一緒に描きたい
多様性に触れた10代 出身は三重県の津市で、高校まで実家で過ごし、大学から大阪にいきました。小さい頃から学校に行くのが大好きで、友達と過ごすのがとても楽しかった記憶があります。親の方針もあり、小さい頃から沢山習い事をさせてもらい、忙しく過ごしていました。自分で言うのもなんですが、真面目で良い子だったと思います(笑)。 そんな僕ですが、割りと早い時期に大きな挫折を味わいました。私立の中学校受験に落ちてしまったのです。僕には兄がいて、彼が成績のよい私立の学校に合格したこともあり、自分もなんとなく続かないと、という気持ちで勉強し、受験に望みました。しかし、結果は不合格。リベンジのつもりで受けたもう一校の学校も落ちてしまい、当時はかなり凹んでいました。 そこでしかたなく、地元の公立中学に通うことになりました。最初の頃は受験の挫折感を引きずっていたのですが、中学生活が思いのほか楽しくて、次第にその挫折感は薄らいでいったのだと思います。自分が通っていた中学は、実は当時かなり荒れていた学校で、色んな考え方を持っている人が沢山いました。そんな多様性に触れる事ができたので、今となっては地元の中学に通ってよかったと心から思います。また、中学からサッカー部に入って、高校まで部活漬けの毎日でした。それなりに結果も出ていましたし、部活でも色々な人と関われたので、そこも自分の基礎を作ってくれた大切な時間でした。 そんな中高時代を過ごしたので、大学に入ってからも、色んな人にどんどん会って自分が知らない世界をどんどん見たい、と思っていました。いくつもサークルを掛け持ちして、カンボジアやタイなど、海外へも何度か行きました。知らない文化や、自分と違う考えを持っている人と話すのがとても楽しくて、「多様性」というのは自分の中で大切なキーワードになっています。 そんな生活をしていた大学2年生の終わりに、東日本大震災が起こりました。 「何かしなければ」という思いだけで走る テレビなどで震災の情報を見るなかで、自然と「これは何かしなければ」と感じました。何が出来るかわからないけど、関西で仲間を集めて学生団体を作りました。そして、まずは現地の情報を知らないといけないということで、その年の5月頭に、大阪から車で被災地に入りました。色々な人を頼って、石巻、気仙沼、陸前高田のボランティアセンターを訪れ、お話を聞いてまわりました。その時は情報を集めるので精一杯で、具体的な活動を行うまでには至りませんでした。しかしその時、気仙沼のボランティアセンターで、大島に全くボランティアが入っておらず、復旧作業が滞っていることを知りました。その情報を持ち帰り、仲間たちと話し合った結果、再び大島に入り、ボランティア活動を行うことに決めました。理由は単純で、自分たちの手が必要とされていると感じたからです。同じく訪問した石巻などは、すでに多くのボランティアが入っていているので、せっかく今動くなら、より必要としてくれるところへ行こうと思ったのです。そこから一緒にボランティアへいく人を募ったところ、なんと100人もの学生が集まりました。そのメンバーと共に、5月の末に大島へ入り、3日間ほどボランティア活動を行いました。それが最初の大島での活動となりました。 地域の変化と共に動く その後は、同じ年の9月に40人規模でボランティアに行ったり、月に1回程度、定期的に訪れて活動を行っていました。1年ほどそんな形で活動していましたが、徐々に瓦礫撤去などが落ち着いてきて、これまでの延長線上では地域のために役に立てない、という状況になってきました。それでも、まだまだ大島に関わっていたいと思い、自分たちに出来ることはないかと考えました。そんな中で、今の大島で「子どもが落ち着いて勉強出来る場所がない」、「外で思いっきり遊ぶ機会がない」ということに気がつき、2012年の3月頃から子供達向けの活動を行うことにしました。 大学生が大島を訪れ、小中学生に勉強を教えたり、外で思いっきり遊べる運動会を開催したりと、子供と触れ合う機会を多く持つことが出来ました。その活動を通して、自分の中で一つの変化がありました。それは、被災した島の子供たちに対して、より継続的な支援をしていきたいという思いが芽生え始めたことです。活動を通じて、気仙沼の教育が抱える危機的な状況がリアルに感じられるようになり、そこを解決していきたいと思うようになっていました。 ちょうど進路に悩んでいた時期でもあり、自分が今やりたいこと、出来ることは何かと考えた結果、大島に移住して教育現場に関わり続けようと決心しました。 島の子供たちと未来を描く 2014年に移住してからは、島の教育にまつわる色々な活動をしてきました。学校外で落ち着いて勉強が出来る寺子屋を立ち上げて運営したり、月に1回、大島の子供たちと島内にあるお店やスポットを取材して新聞にまとめる、地域教育活動などを継続して行っています。また島以外でも、一般社団法人i.clubという教育系のNPOに所属し、気仙沼市内で高校生向けの授業を受け持っています。 大島には小学校と中学校が1つずつしかなく、他の地域と同じように年々児童数が減っています。島の中だけでは十分な教育機会がなく、気仙沼市内に出るにも定期船に乗って通わないといけません。そんな限られた環境の中で、島の子供たちが地域の良さに気づき、自らの夢や将来に向けて前向きに生きていけるような機会を作っていきたいと思っています。 正直まだまだ大変なことだらけで、日々忙しく動き回っていますが、移住したことで島のより細かい変化も手に取るようにわかり、日々すごく楽しいです。島に来てから沢山の方に助けて頂いて、今生活出来ているので、早く役に立てる存在になり、何かを創造して地域に還元し続けていけるようになりたいと思っています。 神田 大樹(かんだ ひろき)さん 1990年三重県生まれ。2014年大阪大学理学部物理学科を卒業。在学中に起こった東日本大震災をきっかけに、ボランティア活動等を通じて宮城県気仙沼市の離島大島に通い、卒業後に移住。現在は、一般社団法人i.clubにて「未来をつくるアイデアを生み出す」ための教育プログラムの開発・実践に携わるとともに、大島での地域教育の場である「島がっこう」を運営する。
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【UIターンインタビュー】自分らしく、「楽しい」を積み重ねる
人生の方向性がなんとなく見えた学生時代 生まれは兵庫県で、大学まで一貫して兵庫県で過ごしました。兵庫での学生時代は全体を通してすごく楽しかった記憶があります。 ただ、自分が思う通り、好きなようになっていたので、あんまり真面目な生徒ではありませんでした。ここでは具体的に言えませんが(笑)。 高校時代はバドミントン部に所属していて、部活にはすごく打ち込んでいて、とても楽しかったです。 引き換えに勉強はまったくしていなかったので、成績は学年でも下の方でした。それを見かねて、部活の顧問だった先生が、自分の教科だった英語だけでもなんとかしたい、ということで、集中して勉強できる環境を作ってくれました。その先生は私の特性を見抜いて、「この子は耳から覚えた方が伸びる」と考えたようで、ALT(外国語指導助手)の先生と英会話をする時間を沢山作ってくれました。 そんなことを1週間続けていたら、なんと英語の成績が学年1位になってしまったのです!その経験から勉強に対して自信がついてきましたし、またその頃から漠然と、海外に行きたい、という将来の方向性も見えてきました。 大学で出会った「生き方」 大学時代に一番のめり込んだのは、韓国・中国でのワークキャンプでした。 大学1年の頃から、FIWCという学生団体に所属し、韓国や中国の山村部にある、ハンセン病の快復者の方が暮らす村に1週間程度滞在するボランティア活動を行っていました。 高校時代からあった海外に対する興味を大学で叶えたいと思い、色々なサークルや団体を探していました。そのなかで出会ったのがFIWCでした。 その団体は、学生だけでなく、社会人も多く参加している団体で、その場にいる一人ひとりがとても魅力的でした。加えて、まじめなボランティアというイメージよりも、参加している人がただただ楽しそうでした。そこに惹かれて、大学1年生の最初の頃から、活動に参加することになりました。最初の夏休みに初めて韓国でのキャンプに参加して、ワークキャンプの意義、自分たちが行く意味、村の実態など、たくさんのことを考え、感じました。 1回目のキャンプを終え、この活動にのめり込みつつありましたし、周りからも来年は全体のリーダーをやって欲しい、と言われるようになりました。自分が最初のキャンプで感じたことをもっと深め、より良いものにしていきたいと思っていたので、リーダーを引き受け、次の夏に向けて1年間かけて取り組むことにしました。 準備の一環として、秋から冬にかけては、仲間と韓国の別の村に行きましたし、FIWCのネットワークを通して、様々な人たちと会って話しました。FIWCは全国に支部があって、同じような活動を行っている人たちと沢山出会うことができました。そこで出会った人はみんな熱い人たちで、改めてこの団体はやばいな、と感じました。その繋がりを通して出会った先輩の一人が、中国で活動していたこともあり、その年の春に中国の村にも行きました。 そこでもたくさんの刺激があり、自分のプロジェクトを絶対いいものにしたい、という気持ちで帰国しました。そんな思いを持って帰国した数日後、東日本大震災がおきました。 真っ先に飛び込んだ気仙沼 震災が起きた当初から、FIWCとして気仙沼に行くという話が上がっていました。自分の周りでも、ボランティアに行くと言っている人が多かった。 しかし当時の私は、すぐに行こうとは特段思っていませんでした。明確な理由はないのですが、何か違う気がしていました。しかし、同じサークルの先輩と話していていた折、「今はボランティアにいくべきではない、ニュースなどでもそう言っている」という発言を聞いたときに、なぜか腹が立ち、現地にいく事に決めました。当時はメディアも声高に、「無闇にボランティアに行かないで、復旧活動の妨げになります」と報道していた時期で、その報道に違和感を感じていたことがその理由でした。現場の事は本当に行ってみないとわからない、又聞きの情報を鵜呑みには出来ない。中国での経験から、現場を知ることの大切さを身をもって感じていたので、そんな思いがこみ上げてきました。 そんなきっかけで、その年の3月24日、FIWCが行っている東北ボランティアの第1陣として気仙沼市唐桑町へボランティアに入りました。最初は短期間のつもりで入ったのですが、第1陣ということで、町内のことを調べたり、ボランティアの活動基盤を整えたりととても忙しく、結局1ヶ月ほどいる事になりました。最初の滞在のあとは、唐桑と兵庫を何度も行ったり来たりし、活動を行っていました。 ボランティアを通して同年代の仲間も数多く出来ましたし、何より地元の人達が名前を覚えてくれて、ボランティアに来る度に声をかけてくれるのがすごく嬉しかったです。その後3年生になり、学業や就活などが忙しくなってしまったので、唐桑に行く頻度は半年に一度くらいになってしまいました。そんな就活時に、一つの転機がありました。 移住を決めた「これ」 当時の私は、マスコミ関係を志望しており、普通に就活をしていました。そして、3年生の終わりに無事内定ももらい、進路が決まったと安心していたのも束の間、とんでもないことに気が付きました。単位が足りず、留年することになってしまったのです。当然内定も取り消し、さすがにその時は凹みました。しかし同時にそのタイミングで、「唐桑に移住しよう」と思ったんです(笑)。 大学時代からずっと考えてはいたのですが、就活を終えて、内定もちゃんともらえたことで、自分は一定レベルで社会に必要とされている、と思えるようになりました。であれば、今移住してもいいかなって(笑)。そこから1年半くらいかけて、移住に向けて準備をしていきました。 今は、NPOリアスの森応援隊という団体で働いています。ここを選んだ理由は色々とありますが、一番大きいのは社長に惹かれたことです。私自身、普通の人よりは一人でも生きていく力が強いと思っているのですが、それをもっともっと突き詰めていきたいと思っています。その上で、市内で色々な会社を経営している高橋社長の元で、学び、力をつけていきたいとも思いました。 2015年の4月に移住して1年半が経ち、「これからどうするの?」とよく聞かれますが、実は特に考えていません。私は今この瞬間に全力を注ぎ、楽しみたいタイプの人間で、幸いなことに今がすごく楽しいんです。なので、一瞬一瞬、この楽しさを積み重ねながら生活していきたいなと思っていますし、そんな環境が整っているまちが、気仙沼だと思います。